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トゥーイル郡 (ユタ州) : ウィキペディア日本語版
トゥーイル郡 (ユタ州)[とぅーいるぐん]

トゥーイル郡(、)は、アメリカ合衆国ユタ州の北西部に位置するである。2010年国勢調査での人口は58,218人であり、2000年の40,735人から43%増加した〔Quickfacts.census.gov - Tooele County - accessed 2011-10-08.〕。郡庁所在地トゥーイル(人口31,605人〔Tooele, Utah 〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。1852年に設立され、郡名はインディアンの酋長の名前から派生したと考えられている。
トゥーイル郡はソルトレイクシティ大都市圏、並びにソルトレイクシティ・オグデン・クリアフィールド広域都市圏に属している。CNNMoney.comの2008年の記事では、2000年以降アメリカ合衆国の郡の中で最も就職機会が成長している郡となっている〔Best for job growth - Tooele County, UT (1) - Money Magazine 〕。
== 歴史 ==
幾つかのインディアン集団が後にトゥーイル郡となった地域に住んでいた証拠が見つかっているが、西部ショショーニ語を話すゴシュート族のみがこの荒れ地を先祖以来の土地として主張していた。ゴシュート族の昔からの領地には現在のトゥーイル郡の大半が含まれている。
1849年、この地域最初の白人であるエズラ・T・ベンソンが率いる末日聖徒イエス・キリスト教会員が恒久的な開拓地を設立した。製材所が建てられたこの地はベンソンに因んでE・T・シティと呼ばれた。ユタ準州議会が最初にトゥーイル郡を指定したときは、「トゥーイラ」と呼んでおり、1850年1月時点ではその領域も現在とはかなり異なっていた。トゥーイルという名前はインディアンの酋長の名前から派生したと考えられているが、そのような酋長が存在したのかについては議論がある。別の説ではゴシュート族の「熊」を意味する "''tu-wanda''" から、あるいはホタルイ属の植物を指すアステカを起源とするスペイン語 "''tule''" から来ているというものである。トゥーイル郡は後にユタ州となるディザレット州ができたときの6郡の1つだった。
1852年までにグランツビル、ベイツビルおよびパインキャニオン(後にリンカーンと名付けられた)の町が作られた
1855年、リッチビルの町が郡庁所在地に指定されたが、間もなくトゥーイルの町の方がかなり大きいことが明らかになってきた。1861年、準州議会が新しい郡庁所在地を選ぶことを認め、トゥーイルが全会一致で選定された。
トゥーイル郡初期の歴史ではゴシュート族との関係が険悪だった。1851年に牛泥棒に反応した少なくとも50人の開拓者集団がゴシュート族を追跡してその宿営地を襲い、インディアン9人を殺した。1850年代を通じて似たような事件が続き、インディアンは常に負ける側だった。1859年、連邦政府インディアン局代表のロバート・B・ジャービスが回遊型の部族を説得し、ディープ・クリークと呼ばれる農場型居留地に入らせた。その結果は楽しみなものと見えていたが、ジャービスが1860年に辞任し、その計画に対する支持が消滅して、居留地は放棄されることになった。ジャービスの後任であるベンジャミン・デイビーズはゴシュート族が連邦政府に対する信頼を失っていることに気づき、ゴシュート族の土地をそれ以上侵略しないよう進言したが、その提案はほとんど無視された。
ゴシュート族の領地には22か所の駅馬車中継所が建設され、その多くは地域で希な自然の泉があるところだった。郵便中継所に対するゴシュート族の攻撃は1860年に激しくなり、互いに襲撃を繰り返す中で多くの者が殺された。南北戦争が始まった時に連邦軍がこの地を去り、1862年にカリフォルニア州からパトリック・E・コナー将軍が来るまで、防衛はノーブー・リージョン(モルモン教徒が作った民兵隊)の手に委ねられた。
コナーはインディアンに対して情け容赦が無かった。1863年にはアイダホの南部で300人以上のショショーニ族インディアンを殺した。コナーの兵士はインディアンの宿営地を時には見境無く攻撃したが、1863年には駅馬車会社が16人の人員と150頭以上の馬を失った。1863年に和平協定が結ばれ、年金支給と殺された動物の代償に1,000ドルを渡すのと引き替えに、敵対を止めることと陸路の安全を手に入れた。この協定ではゴシュート族が土地を支配することを認めていたが、1865年6月に結ばれた協定ではその土地を割譲させた。
コナー将軍はモルモン教徒に反感を抱いていた。またその部下には鉱物の探査を奨励した。コナーは鉱業を興せばユタ準州に非モルモン教徒を呼び寄せられると考えた。1864年にトゥーイル郡で部下が金、銀、鉛および亜鉛の鉱脈を発見した後にコナーの考えが正しいことが証明された。オーカー山脈西部で兵士によってラッシュバレー鉱業地区が設立され、最初の都市に100件以上の鉱業権が申請された。オーファーやルイストンなど新しい鉱山町では1870年代にそれぞれ人口6,000人以上に膨れあがり、トゥーイルやモルモン教徒の町全ての人口を上回った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トゥーイル郡 (ユタ州)」の詳細全文を読む



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